ケルト人の都パリ

 

紀元前50年、ガリア(現在のフランス)に古代ローマ帝国ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が進出してくるまではガリア語、ゴール語を話すケルト諸部族が住居しているケルト人の地でした。ローマに破れたガリアは支配するローマへの同化が進みました。その後のゲルマン人の一派であるフランク人が流入しフランク王国を形成しフランスという名になりました。フランスとケルト、今ではなかなか繋がらない印象ですが、史跡や地名に当時の隆盛が残っています。また、フランス人の中には今でもケルト文化を強く意識している方々もおられるようです

 

パリ周辺には紀元前4世紀頃から人が住み始めていたようです。紀元前3世紀頃パリのシテ島にケルト系部族、パリシイ族が定住し始め城壁都市を造り、ルテティア(注:ラテン語 / ルテティア・パリシオルム / Lutetia Parisiorum, パリシイ族の沼沢地)と呼ばれるほど発展したそうです。パリはこのシテ島を中心に発展しました。ローマ支配時にはルテティアもローマ化が進んだようです。3世紀頃にルテティアは先住民パリシィ族の名称をとってパリと改称されました。これがパリという名前に起源です。その後メロヴィング朝、カロリング朝、カペー朝 、ヴァロワ朝、ブルボン朝、オルレアン朝、フランス革命とパリの歴史が流れます。それまで一地方都市であったパリが首都となったのはカペー朝の時からです。1163年ノートルダム大聖堂が建築され、シテ島は政治と宗教、文化の中心になっていきました。